日本ワヰコ株式会社

製造業

しごと紹介

1. 高い精度が要求されるエンジンの重要保安部品

エンジンに組み込まれる部品の中でもとくに重要とされる「コンロッド」。ピストンとクランクシャフトを連結し、上下運動を回転運動に変換する役目を担う。

爆発的なエネルギーを受け止めながら高速回転するため、コンロッドには高い加工精度が求められるのはもちろん、素材自体にも引っ張り強度や耐圧性、耐摩耗性といった特殊な精度が要求される。まさにエンジンの心臓部品、重要保安部品といわれるゆえんだ。

そんなコンロッドを手がける専用工場が多可町加美区にある。日本ワヰコ株式会社の東播工場だ。

「私たちの合言葉は〝コネクティング〟、つまり〝結びつき〟です。ピストンとクランクシャフトを結ぶコンロッドのように、お客様により良い製品とご満足を結びつける存在を目指しています」と五代目社長の木下浩伸氏は話す。

2. 日本唯一のアルミ合金製コンロッドの専業メーカー

同社の創業は1926年と古く、米国のWICO式マグネット(点火プラグへの電圧を供給する装置)の輸入商社として神戸で産声を上げた。「ワヰコ」という特徴的な社名は、祖業のWICO式マグネットに由来しているという。

「〝WICO(ワイコ)〟という語感が耳に残ることから、そのまま社名に採用したようです。さらに視覚的にも覚えてもらうためにカタカナの〝イ〟ではなく、〝wi〟を表す〝ヰ〟を使用したと聞いています」と木下社長は説明する。

同社がコンロッドを初めて手がけたのは1937年。当時取引のあった商社よりの依頼で自動車向けのアルミコンロッドを製造したのが始まりだ。

「それ以降、当社は商社から製造業に業態転換し、戦後の高度成長時代に専用工場を建設。アルミ合金製のコンロッドの製造販売に特化し、1966年には月産3万本を製造するまでに成長しました」

そう木下社長が説明するように、同社は鉄製ではくアルミ合金製のコンロッドを日本で唯一、専業としている。軽量で低振動、低騒音といった素材の特性を活かし、芝刈り機や発電機などの汎用エンジン、レシプロ式のコンプレッサー、船舶用エンジンなどに組み込まれる高品質のコンロッドを製造してきた。

「アルミ合金製は鉄製と比べて10分の1程度の市場しかありません。販路開拓という意味では難しい面もありますが、祖父がニッチなマーケットを選んでくれたからこそ今がある、そう感謝しています」

3. 神戸から大阪、そして多可町へ

神戸で創業したのち、大阪に拠点を移していた同社が多可町に工場を設けたのは1970年に遡る。

「ちょうどその頃、主要取引先からコンロッドの生産ラインを譲り受け、増産体制を敷くことになりました。そこで新工場の候補地を探すなか、祖父が懇意にしていた素材メーカーが多可町に拠点を置いていたこともあり、現所在地の多可町加美区に東播工場を建設することになったのです」

以来、多可町に根を張って約50年。地域への思いを木下社長は次のように話す。

「半世紀にわたり、地域の多くの方々に支えていただきました。企業は人で成り立っていますから、本当にありがたいことです。今後も地域の雇用と経済にさらに貢献できるよう、努力を続けていきます」

4. 逆境をバネに新たなチャレンジを続けてきた

90余年の歴史のなかでは、戦争や経済危機など幾多の試練に翻弄されてきた。多可町に進出直後の1973年には、世界的な原油高騰を受けて第一次オイルショックが勃発。事実上、日本の高度経済成長は終焉を迎えることになった。

「その経済危機の余波を当社もモロに受けましたが、先代の父は悲観するのではなく、『国内市場だけに頼っていたらあかん』とアメリカ市場の販路開拓に乗り出す契機にしました。その努力は実り、1980年代半ばにコンプレッサー用コンロッドの対米輸出を始めることになったのです」

逆境をバネに新事業にチャレンジし、次のステージへ――それは現社長も同じだ。

リーマン・ショックで業績が落ち込んだとき、後述するような模索の末に動き出した展開として、先代が切り拓いたアメリカ市場に今度は汎用エンジンで挑むことに。その結果、2014年にオハイオ州に現地法人の販社を設立し、現地企業との直接取引につなげてみせた。

「うちは本当に幸運な会社なんです。試練が訪れるたびにお客様と取引先、そして従業員に恵まれてきたことが、私たちがここまでこられた理由です」と木下社長は感謝する。

経営者紹介

1. このまま潰れてしまうかもしれない

「来月から中国製の調達に切り替えるから」

2006年に先代から社長を引き継ぎ、お客様に挨拶回りに出かけた矢先に思わぬひと言を突きつけられました。当時は日本のメーカーが海外調達に触手を伸ばし始めた頃で、その後、単価の低い海外製を使う流れに潮目が切り替わりました。

言い知れぬ不安を抱いていた先に、追い打ちをかけるように襲ってきたのがリーマン・ショックです。幸い他社より影響は少なかったものの、それでも売上は4割減少し、週に2日は操業を調整せざるを得ない状況に追い込まれました。

「このまま潰れてしまうかもしれない」という恐怖心を抱きながら、「何とかせなあかん」と5S活動や業務改善、IT化など、トップダウンで手当たり次第にやりました。ですが危機意識を抱いているのは新米社長の私ひとりで、従業員は訳も分からず振り回されているだけ。そんなバラバラの組織やったと思います。

2. 会社は誰のために、何のために存在しているのか

「これではあかん」と感じて、2013年から管理職を巻き込んで始めたのがビジョンづくりです。社長の私ひとりがもがき続けても、会社の行き先が明確でなければ誰の共感を得ることもできず、また何をするにも意味がないと痛感したからです。

まず考えたのは会社の存在意義でした。当社はお客様、取引先、従業員に恵まれてここまでやってくることができました。ならばその人たちが幸せにならなければ、当社が在る意味はないのではないか――そんな価値観のもと、「日本ワヰコに関わる多くの人と幸せになる」という存在意義を明文化しました。

こうして価値観を示すことで、会社としての理想像が見えてきます。私たちはどのような会社になりたいのかを管理職も従業員も巻き込んで考え、つくり出したのがこの企業理念です。

「安心と快適を提供する『ものづくりサービス業』として お客様と従業員に必要とされる企業を目指す」

さらに理念を実現するための道しるべとして、「2020年ビジョン」をみんなで考えました。「昇給、賞与が一定以上ある」「働きがいのある楽しい会社」「ベンチマークに来てもらえる」というコンセプトを掲げると共に、行動指針にまで落とし込んで「経営計画書」に明記しています。

私たちの活動は、企業理念につながるこの2020年ビジョンを実現するためにある――こうして理念と行動計画を共有することで、組織に団結力が生まれ、目の前の行動の一つひとつに意味が生じ、取り組み姿勢が変わってくるのです。経営品質を高めるプロセスを通じて組織が成長してきていると実感しています。

3. 引退に向け、社長としてやるべきこと

今後の展望は、会社を2020年ビジョンの姿に近づけること。それと共に人材の引き継ぎを進めていきます。

というのも私自身、101期を迎える2027年に引退を決めているからです。もう9年後に迫ってきました。

木下家へのこだわりはありません。たまたまいま私が社長を務めさせてもらっているだけで、社内で優秀な人が継いでくれたらと思っています。

自分自身の価値観をもとに引退時期を決めることで、社長としていまやるべきことが見えてきます。それはお客様から必要とされ、関わる多くの人たちが幸せになれる会社を次代に引き継ぐこと。

同族にこだわるよりも、この会社の存在意義を未来につなぎ、永続していくことこそが大事だと考えています。

新たなしごと・取り組み

1. コンロッドの「次なる柱」を求めて

そんな同社では2017年以降、コンロッドの次の柱を育てるべく新事業にチャレンジしてきた。理由はふたつで、ひとつは為替リスクを回避するため。2014年からのアメリカ第二進出は軌道に乗ったものの、ドル建ての売上が増えたことで国内事業のテコ入れが必要になってきたのだ。

「そしてもうひとつはEV化の潮流を見据えた次なる一手を模索するためです。取引先の一社が汎用エンジンの製造から撤退したこともあって、コンロッド一本に頼る事業リスクにいよいよ向き合わざるを得なくなりました」

危機感を強めた同社では2016年12月1日、新事業を開発する専門部署として「事業開発グループ」を発足。グループ長にエース人材を投入したほか、計3人体制で活動することになった。グループ長の山下博史氏は当時の意気込みをこう振り返る。

「社長からは、何をするのかも含めてグループに一任してもらいました。私たちがこれまで培ってきたアルミ切削技術を活かすことで、コンロッド以外の加工を必要とする人たちの力になれるのではないか。机上で考えるよりもとにかく動き出そう――そんな考えのもと、〝チャレンジ〟をキーワードにグループでの活動をスタートさせました」

2. 仮説が当たり、部品加工事業部を新発足

とはいえ、手当たり次第に動いても方向性が定まらない。そこで仮説を立て、見込みのある企業にピンポイントで提案する戦略に打って出ることに。

「その仮説とは、加工部門を持つ素材メーカーに絞って受注提案を行う方法です。素材メーカーが自社で二次加工まで行うのは負担が大きく、外注ニーズがあると考えたのです。当社にとっては既存技術を活かした新事業への足掛かりとなり、素材メーカーにとっては加工をアウトソーシングできる利点がある。お互い利益を享受できる関係が結べると考えました」(山下氏)

この仮説はぴしゃりと当たり、営業を始めて間もない時期に、ある素材メーカーから逆提案を受けた。

「それは加工事業を機械ごと買い取ってほしいという依頼です。当社にとっては新たな扉を開くまたとないチャンスと捉え、木下社長が提案を受け入れる決断をしました。そして2017年10月に『部品加工事業部』の操業を開始することになったのです」

この山下氏の話を受けて、木下社長は次のように続ける。

「私たちは品質を第一に考え、安定したコンロッドの提供に努めてきました。その長年の積み重ねが信頼となり、こうしてお声掛けいただける。改めて今日の当社をつくった先達の努力に感謝です」

3. コンロッドと汎用品の相乗効果を目指して

奇しくも引き取った機械を据え付けた場所は、リーマン・ショックの直後に新設した工場だった。業績低迷にあえぐタイミングで竣工して途方にくれたが、その新工場があったからこそ事業を買い取れたともいえる。「だから本当に当社は幸運なんです」(木下社長)

部品加工事業部では、すでに取材時点(2018年1月)で7社からアルミ材の二次加工を引き受けるまでに成長している。具体的には測定機器、建材、空調関係、船外機など幅広い分野からの受注だ。

しかしながら苦労も少なくない。グループ長として新事業を率いる山下氏は言う。

「コンロッドの加工には専用機を使い、治具もある程度共有できます。しかし新事業部で受注するのは多品種小ロットの試作品加工が中心。毎回種類が異なるので工作機械の設定から治具構成まで調整する必要があるほか、短納期の仕事が多いためにスピード感を持って対応しなければならない。まだまだ改善の余地があります」

この事業開発グループの成果を受けて、木下社長は「アルミコンロッドから抜け出したという点で大きな一歩」と評価する。

「しかし同時にそれは通過点でしかありません。今後も新たな取り組みを継続し、汎用製品で蓄積したノウハウをコンロッドに還元していきたい。そうやってふたつの事業部で相乗効果を発揮し、技術とノウハウをさらに高めていく考えです」

ライター:高橋 武男